2011/10/31
しょうぶ学園と希望

ENNOVA OKAYAMA のイベント「希望のつくりかた」を観にいってきた。
第1回目でもある今回はしょうぶ学園施設長・福森伸 氏の講演会。
しょうぶ学園は知的障害者支援施設であり、工芸・芸術・音楽等、知的障害をもつ人のさまざまな表現活動を社会と繋げる活動をしている。
特徴的なのは制作するものの内容は作者に完全に委ねられている点。
多くの施設ではまず先になにかしらの完成品がひな形としてあり、施設の利用者はそれに沿って制作を行う。ひな形と同じようにできればそれは製品になり、できなければ廃棄するしかない。そこで、できる人/できない人というレッテル貼りも生まれると福森氏は言う。利用者を既存の概念に押し込めようとした結果、こういったことが起きるというのは想像しやすい。
ここで福森氏は発想を逆転させた。
しょうぶ学園の利用者(というか作者)は自分に合う道具と手法をみつけるところから始める。その多くは金槌で板に傷をつけたり、粘土で団子をつくったり、刺繍して糸の塊をつくったり、シンプルなものだった。そうやって自分の気に入った手法をみつけるとその行為自体に没入し始める。なにか目的を持ってつくっているのではなく行為そのものを日々の営みとしてひたすら続ける。そうして形として現れ始めたものにはみるものを圧倒するようなエネルギーが内包される。しょうぶ学園ではそれを服飾品や工芸品の体裁にして流通させたり、そのままアートとして世界へ向けて発信したりしている。
このように作者独自のアルゴリズムによって生み出された作品はあざとい作為がなく心地いい(もちろん個別に観れば好き嫌いはあるけれど)。
個人的にはこのような活動の中で、作品の持つその強度に焦点をあてて展開しているところが最も素晴らしいと感じた。
1つ告白すると、最初、ボクはこの講演を少し懐疑的な気持ちで聴き始めていた。
しょうぶ学園で生み出される作品が、いわゆる”障害者アート”の文脈で語られるのではないかと危惧したからだ。
「障害者が頑張ってつくった作品」ということを前に出すと作品は批評の対象ではなくなってしまう。結果、鑑賞者からは「自分は恵まれていると思った。明日からもっと頑張ろうと思う」みたいなフィードバックしか得られなくなる。
それが悪いわけではない。鑑賞者がなにを感じるかはもちろん自由だ。
それでも、作品が素晴らしいと言うのなら、その強度を信じると言うのなら、もっと別のアプローチがあるはずだ。
しかし、そんな浅はかな危惧は不要だった。
福森氏は「障害者ブランドではなくしょうぶブランドをつくっている」ときっぱり言い切った。
展示会では作品の魅力だけを伝え、どういう作者が制作したのかは聞かれれば答える程度だと言う。
色んなアプローチの方法はあるだろうし、目的によってなにが正しいと言うこともできないけれど、ささやかながら作品をつくっている者の一人としてボクはそのアプローチがフェアでとても心地のよいものに感じられた。
余計な荷物はいらない。強度のある作品を生み出せるのなら。
ボクはこれを希望と呼びたい。
第1回目でもある今回はしょうぶ学園施設長・福森伸 氏の講演会。
しょうぶ学園は知的障害者支援施設であり、工芸・芸術・音楽等、知的障害をもつ人のさまざまな表現活動を社会と繋げる活動をしている。
特徴的なのは制作するものの内容は作者に完全に委ねられている点。
多くの施設ではまず先になにかしらの完成品がひな形としてあり、施設の利用者はそれに沿って制作を行う。ひな形と同じようにできればそれは製品になり、できなければ廃棄するしかない。そこで、できる人/できない人というレッテル貼りも生まれると福森氏は言う。利用者を既存の概念に押し込めようとした結果、こういったことが起きるというのは想像しやすい。
ここで福森氏は発想を逆転させた。
しょうぶ学園の利用者(というか作者)は自分に合う道具と手法をみつけるところから始める。その多くは金槌で板に傷をつけたり、粘土で団子をつくったり、刺繍して糸の塊をつくったり、シンプルなものだった。そうやって自分の気に入った手法をみつけるとその行為自体に没入し始める。なにか目的を持ってつくっているのではなく行為そのものを日々の営みとしてひたすら続ける。そうして形として現れ始めたものにはみるものを圧倒するようなエネルギーが内包される。しょうぶ学園ではそれを服飾品や工芸品の体裁にして流通させたり、そのままアートとして世界へ向けて発信したりしている。
このように作者独自のアルゴリズムによって生み出された作品はあざとい作為がなく心地いい(もちろん個別に観れば好き嫌いはあるけれど)。
個人的にはこのような活動の中で、作品の持つその強度に焦点をあてて展開しているところが最も素晴らしいと感じた。
1つ告白すると、最初、ボクはこの講演を少し懐疑的な気持ちで聴き始めていた。
しょうぶ学園で生み出される作品が、いわゆる”障害者アート”の文脈で語られるのではないかと危惧したからだ。
「障害者が頑張ってつくった作品」ということを前に出すと作品は批評の対象ではなくなってしまう。結果、鑑賞者からは「自分は恵まれていると思った。明日からもっと頑張ろうと思う」みたいなフィードバックしか得られなくなる。
それが悪いわけではない。鑑賞者がなにを感じるかはもちろん自由だ。
それでも、作品が素晴らしいと言うのなら、その強度を信じると言うのなら、もっと別のアプローチがあるはずだ。
しかし、そんな浅はかな危惧は不要だった。
福森氏は「障害者ブランドではなくしょうぶブランドをつくっている」ときっぱり言い切った。
展示会では作品の魅力だけを伝え、どういう作者が制作したのかは聞かれれば答える程度だと言う。
色んなアプローチの方法はあるだろうし、目的によってなにが正しいと言うこともできないけれど、ささやかながら作品をつくっている者の一人としてボクはそのアプローチがフェアでとても心地のよいものに感じられた。
余計な荷物はいらない。強度のある作品を生み出せるのなら。
ボクはこれを希望と呼びたい。

報告記事有難う! まさたかさんの積極活動に敬意!
ハンディを持つ人に、私みたいな老人や幼子も含めて、小さな手助けをすることは難しいことです。初めっから、難しいと思い込んでいます。
とりわけ、やや重いハンディがある場合、社会的な「自立」をどのように「導く」かは大きな課題と思われています(いました)。
「自立」とはなにか、「導く(助けるOR援ける)」とは何かを実践の中で問いかけられているのですね。
昨今、一般社会でも問われていることだと思います。サービス業系の「マニュアル」依存の接客作法の例を『示すことからで宜しかったでしょうか?』
大学生が、いわゆる就活で、面接練習キャンプを張るお世話をするのも~~ ヒトのJIS規格、ISO規格化ですよね。
”誰かの描いた物語を生きる”ということに限界を感じ始めています。また、それと同時に長年に渡って刷り込まれてきた価値基準の外へ踏み出すのは多くの人(ボクを含め)にとって簡単なことではないのかもしれないと思っています。
それでも、なにかが変わり始めているように感じます。なにをつくり、残すのか。時に自分に問いながら作品をつくっています。